今日の夕方頃に新しく働くことになった会社から電話がありました。
自動車保険に関する要件だったのですが、電話口でこんな風に言われました。
「お父様の苗字とご本人さまの苗字が違いますよね?本当の親子かどうかこちらでは解らないので、住民票か戸籍を提出して下さい」
本当の親子って、どういう意味ですか?
苗字が違うから親子関係を証明できない、等と電話口で仰っていて、ちょっと理解できません。
同姓同名って言葉を知っているのでしょうか。
名前が同じである事は、親子関係の証明にはなりませんから、名前が同じか否かは関わりのない事です。
正直、令和の時代に20代そこそこで管理部に勤める女性が、無意識にこのような差別発言をしている事に驚愕しました。
ステップファミリーへの差別はある
確かに、昭和にはそのような差別的意図を含んだ発言と、明らかな差別があった様です。
求職者の親が離婚している場合は採用しない、親が離婚している場合は結婚を認めない、今も少しはあるかも知れませんね。
しかし、私が驚いたのは、相手が20代そこそこの若い女性だった事と、彼女が意図せずそのような発言をしていた事。
そこには、無意識の中に"名前が同じ=家族、名前が違う=家族じゃない"という認識の他にも、"違う名前を名乗っている=本当の家族ではない"という認識があった事は確かです。
そうでなければ、咄嗟に"苗字が違うので、本当の家族かどうか解らない"等という発言は出ないと思います。
ステップファミリーというのは、日本ではデリケートな問題です。
私は養父の養子となり、養父の苗字を名乗っているので、実父とは異なる苗字を名乗っています。
彼女の言う"本当の家族"とは何なのでしょうか。
そして、"本当の家族"では無い家族とは何なのでしょうか。
私の苗字は書類一枚で容易に変更する事ができます。
苗字を変更すれば、私は血の繋がった実父と"本当の家族"になれるのでしょうか?
正直、彼女の認識に心底失望しました。
無意識の差別
最終的には私から意義を申し立てて、謝罪して貰ったのですが、意図せずその様な発言をしたという彼女の言葉を受けて、少し考えました。
無意識の差別は良くある事です。
逆に言えば、無意識下に差別的意図を刷り込まれている訳です。
99年頃に、カナダ・バンク-バーの日本の総領事が、妻に対する暴行の疑いで、地元警察の取り調べを受けていることが判明しました。
この時、総領事は事実関係を認めながらも、単なる夫婦げんかで文化の違いだと主張した様です。
この事件もまた、無意識の差別だと言えます。
また、差別と言えば真っ先に思い出すのが黒人奴隷ですが、奴隷制度が存在していた時代に欧米で生活していた白人の全てが悪人であった、という考えもまた一種の差別的思想だと捉える事ができます。
差別は一種の偏見からおこる事象です。
偏見は社会や文化から派生する思想です。
この意味で、あるカナダ生まれの日本人が私との対話の中で、伝統文化を批判しました。
存在意義がないと。
しかし、私はそれもまた偏った考えであると捉えています。
なぜなら、伝統文化と差別は表裏一体の物ではなく、差別は民族の違いから生まれる物では無いからです。
社会が差別を産み出す
インターネットで色々な記事を見ていて、差別は悪いと解っていても、大多数が差別を行う環境では、差別を行う事に対する罪悪感を感じなくなる、という意見がありました。
的を得た意見だと思います。
男が妻や子供を殴るのは古今東西良い事・素晴らしい事では無いと思います。
しかし、"子供を殴るのは躾で当然の事"という社会全体の意識があれば、かわいそうだが子供の為に子供を殴るのだという意識となります。
喧嘩で妻を殴るのは当然という意識が社会全体にあれば、"喧嘩だから妻を殴った"という事になります。
ある意味では、社会が差別を産み出しているのです。
社会のあり方には文化が影響しています。
では、文化が差別を増長しているのでしょうか?
民族の違いから人種差別はおこるのでしょうか。
私は違うと思います。
なぜ差別は生まれるのか
同じ人種間でも差別は産まれます。
東南アジアの人々を見下す日本人は多いですし、例えば、北朝鮮人という同一の国の国民でも、在日の方は差別を受ける等の話を耳にする事があります。
人種や民族の違いが差別の基となっているならば、この様な差別はおこらない筈なのです。
そして、文化が差別を産み出すならば、江戸時代までは交易によって盛んに東南アジア諸国と交流し、交易によって得た品物を唐物として重用していた日本で、東南アジアに対する差別がおこる筈がありません。
正直に言いますけど、自分達とは肌の色が違う東南アジア諸国の人々に対して、日本人が差別的な感情を持っている事は事実です。
もちろん、全ての人がそうだとは言いません。
しかし、日本人が日本以外のアジア人を見下している事は海外でも有名で、中国語を用いて中国人やマレーシア人、シンガポール人と交流していると、時折指摘される事でもあります。
戦時中~戦後の日本には、ここまでの差別的な認識は無かったと私は感じています。
なぜなら、戦時中の日本は国土を広げ、内地と外地を行き来する人が多かったからです。
当時の雑誌を読むと、読者コーナーには外地からの投稿も多く、外国人労働者も多かった事が解ります。
例えば、有名な日清食品の創立者は後に帰化していますが、当時は"外地"であった台湾人です。
当時の日本では、内地の人間と外地の人間が往来していた事は明らかです。
差別の源は普通の基準
以上の事を踏まえて、差別は文化や人種の差異から産まれる物では無い事が解ります。
少しは関係あるかも知れませんが、全ての差別的な感情が人種や文化の違いからおこる物ではないと私は考えています。
しかし、社会環境は差別意識と密接な関わりを持ちます。
差別する側の人間が、"何を当然だと思っているのか"によって差別が産まれるのではないでしょうか。
そして、何を当然だと思うのかは社会の状況によって変異します。
また、心理学の研究では経済的に低迷するほど差別意識が強くなる事が指摘されています。
これは体感的にも事実だと思います。
経済的に困窮するほど、自己保身の意志が強くなるのは誰もが経験する事では無いでしょうか。
他人を退けても自分を通したい、という意識は追い詰められるほど強くなります。
そして、それは差別を増長する意思でもあります。
差別は"当然ではない物"を排他する場合におこる感情です。
何が当然ではないのかは社会の状況によって変異します。
外国人が当然ではないのか、女性の社会進出が当然ではないのか、障害者が当然ではないのか、有色人種が当然ではないのか。
そして、ステップファミリーが当然ではないのか。
無意識の差別を行うか否かは、自分とは異なる立場にある人間への理解度によって変動します。
社会の成熟によって差別が広まる
今の日本には、もちろん貧困等の問題がありますが、それでも戦後よりは良い環境にあり、多くの人々が衣食住に困らない生活をしています。
それは社会が成熟したからになりません。
しかし、社会が成熟して均質化したからこそ自分とは異なる立場の人間への理解が遅れている印象を受けます。
普通の小学校へ行き、普通の中学校へ行き、普通の大学へ進学して、それなりの会社に勤めれば、殆ど同じような立場の人間としか知り合わない事になります。
それが普通であるほど、少数派に対する眼差しは鋭くなります。
少数派が存在する事で、自らの立場を脅かされている様な感情を抱いている人間も存在すると思います。
"普通"である自分を守るためには、秩序を乱す少数派を迫害せねばなりません。
差別とはその様な感情だと私は理解しています。
そして、それは無意識に人間を蝕みます。
改めて差別感情に向き合い、そんな事を思いました。