小獅子の尾

芸術大学の通信教育部に通う20代女子の雑記

【介護日記①】理解されない祖母と私


介護の負担

子供の頃から、曾祖母を介護する母を見てきた。
介護は特に女性に重くのしかかる問題だと思う。
私は両親が離婚した関係で、長い間祖父母の家で生活してきた。

祖母を介抱して、ご飯を食べさせて、着替えをさせて・・・という事は無いけど、祖母の体調を把握するために、週に数回は必ず話をする時間を作って、体調の悪い時は頻度を増やす。

免許を返納した祖母のために買い物に行ったり、緊急時は救急車を呼んだり、調子の良い時は桜を見に行ったり、介護と言う程では無いけど、色々あるのだ。

二人暮らしだから、正直負担は大きい。
何かあったら全て私の責任になってしまう。
祖母が骨折した時には「お前が気付かないから」と何度言われた事か・・・

忙しい時でも体調が分かるよう、ヘルパーさんを頼みたいと別居の家族に相談した時は、何故か知らないけど上から目線で散々に怒鳴られた。

その程度の人達である。
私の重荷なんか、何も解ってないんだろうなと思って諦めている。

病状も伝わらない

祖母が癌になった可能性が高い。

ずっと喉が腫れておかしかったが検査されず、気道が圧迫されて、症状が悪化しても助けられない状態になってから、ようやく検査が行われて異常が見付かった。

日々悪化して行く祖母の喉の腫れと、それに伴って大きくなる喘息の様な音を聞いて、癌ではないだろうか、すぐに検査しないと手遅れになるのでは・・・と何度も疑っていたから、正直ショックは少なかった。

もうダメかも知れないと思う事が何度もあった。
就寝中に祖母が呼吸困難になり、救急車を呼んだときは本当に危なかった。

でも、その時の異変は、その場にいなかった人には案外伝わらないのだ。
多分、これが認知のバイアスなんだと思う。

大丈夫だろう、大したこと無いだろうという思い込みが人を錯覚させるのだ。

子育てよりも軽い人生の最後

「日本の男は、自分の母親なのになぜか血縁の無い妻に面倒を見させて、自分は面倒を見なくても良いと思っている非情な人が多い」という文章を読んだ事がある。

仕事を辞めてまで介護する母親を見ていて、ずっと感じていた違和感の正体に気付いた気がした。

そうだ、女性が介護をする事が多いけど、介護を受ける側は女性と親密な関係だったとは限らないのだ。

本人がどう思っているかは別の問題ではあるけれど、親が老いたり、病気になっても自分が男だったら仕事を優先して親は放置しても良い、みたいな価値観が、この世には少なからず存在するのだ。

しかし、大抵の場合、介護をする人は仕事を辞めざるを得なくなる。
フルタイムでは働けないし、パートでも突然の体調不良には対応できない。

介護は厳しい。

育児休暇は年単位で取れるけど、介護休暇は取れて数日。
わずかな見落としが命に関わる事もあるのに、介護は子育てよりも比重が軽い。

最後の日々を過ごすのに、何の保証も無いのが現実なのだ。

介護は理解されない

介護を経験した人達は声を揃えてそう語る。
実際、理解されないのだ。

僅かな見落としが人の命に関わる重責を、一体どれだけの人が認知しているのだろうか。
世の中の病気は自覚症状のある物だけではないのだ。

認知症の人達と話をすると、殆どの人が理解されない苦しさを語る。
私が会話をした人達の多くは、認知機能の衰えを自覚していて、自分自身でも恐怖を感じていた。

だけど、彼らの家族と話をすると、多くの人が「意識がハッキリしたまま認知症になるのは可哀想だけど、うちは完全にボケて自覚なんか無い」などと話していたりする。
これも「認知症だから解っている筈がない」という認知のバイアスなんだと思う。

結局、人は自分の経験でしか人を判断できないのだ。

介護という特殊な環境下では「話せばわかる」という常識は通用しない。
全員が経験することでは無いからだ。


職場でも介護は理解されなかったりする。
それでも思う。
肉親との最後すら尊重できない考えを持って、それでこの人は幸せなんだろうかと。

家族と最後の時を過ごした事があれば、そんな考えにはならないだろうにと・・・