通信制大学で伝統文化を学び、雅楽を習い、伝統文化に浸かっていると、伝統文化特有の世界観を目の当たりにする事があります。
そこで、今日は伝統文化の師弟関係についての話をしようと思います。
長年お稽古に通っても上達しない訳
実は私、今の先生になる前に他の先生から雅楽を習っていました。
一人は雅楽を教える事を生業にされている方、もう一人は神社の職員さんでした。
まぁ、横笛は演奏が難しいという事もあるのですが、実は結構、初めから教える気がない先生も一定数存在しています。
いや、本当に。
そういう先生のお弟子さんは皆さん、先生とは違う音で雅楽を演奏しています。
技術的な差があるから、というレベルではなく、本当に全く、音域から違っている事が実際にあります。
雅楽を習い始めた頃、私にはその違いが良く解りませんでしたし、若かりし頃の私は先生に上手く言いくるめられていました 笑
が、今は音色があまりにも違う事が解ります。
そして、何年もその先生の下で雅楽を習っているのに全く異なる演奏方法になっている方にも何人か出会ってきました。
殆どの場合、お弟子さんの問題ではありません。
初めから本当の演奏方法など教えるつもりは無いのです。
まぁ、もちろん練習不足で上達しない場合もありますが、それは本人も自覚する所でしょう。
師弟関係には信頼が必要だと思う
私は引っ越しをしたのもありますが、先生を変えてから随分良くなりました。
今の先生(僧侶)の事を心から信頼していますし、先生の先生からどのように習ったのかを教えて頂ける事を、本当にありがたいと思っています。
もしも、先生を信頼できないなら、その習い事を続けるべきでは無いと私は思います。
なぜなら・・・信頼できない人間から学べる事などそもそも存在しないからです。
日本の伝統芸術には血脈という物があります。
例えば、雅楽の場合は同じ楽曲で、同じ音高での演奏でも、先生によって演奏方法が違うのです。
雅楽を習うと言う事は、その血脈を引くという事です。
そこに、ある意味では擬似家族的な"師弟関係"という概念の根底を見る事ができます。
血脈を引く覚悟が無い、もしくは正しい方法を意図的に教えて貰えない場合、そこに習い事をする意味があるのか否か・・・
私には良く解りません。
流派=日本の伝統では無い
伝統文化の世界では、師弟関係に必要以上に縛られてしまう事が少なくありません。
ドロドロした人間関係の根源に"師弟関係"という閉じた世界の人間関係が位置しているのでは無いかなぁと思ったり思わなかったり。
雅楽には"流派"が無いため、私には実際の所は良く解りませんが、大学等で話を聞いていると、どうも免許・免許で、就職活動の様に上下が判断される、という印象が拭えません。
家元を最上位に置く"流派"と、それに付随する師弟関係というのは近世(江戸時代頃)に伝統芸能が大衆化する中で生まれた制度の一つです。
が、個人的には高度経済成長を経て、ある意味では特殊な立場を獲得したのでは無いかと感じています。
つまり、お金で色々な物が決まる、という事です。
江戸以前の伝統芸術には"流派"という物は存在しません。
そして、流派=伝統というのは違うんじゃ無いか?というのが私の意見。
流派で悩む方は多いみたいです。
流派に執着する必要もない
昔、薔薇色のイストワールという戦時中に活躍した原田弘夫さんという舞踊家の方の伝記を読んだ事があります。
この本には、色々な流派を経験した舞踊の先生が出てきますし、原田弘夫さん自身も複数の流派を跨いで舞踊を習ってきた方です。
流派どころか、日舞から能楽、雅楽の舞楽まで、幅広く舞踊を学ばれていて、技術的にも素晴らしい才能を持っていたと聞いています。
また、海外の伝統舞踊の世界を見てみると、より視野が広まります。
西洋と自国の伝統を混合した新たな舞踊や音楽が継承されるのは珍しい事ではありません。
決して外国だからという意味ではなく、日本でも文明開化の頃にはバイオリンと筝の合奏、日本的な歌謡をバイオリンで演奏するなどのパフォーマンスが行われていました。
現在の伝統文化と過去の伝統文化は同一の物では無いのです。
なぜ、昔よりも日本の伝統文化は閉鎖的になったのか・・・改めて残念に思う所ではあります。
閉鎖的な伝統文化が発生した理由
閉鎖的な伝統文化の成立は、ある意味では日本文化の衰退から始まっていると思います。
もはや、日本文化とは生活から切り離さなければ成立しないほど衰退した文化なのでは無いか?という事です。
例えば、昔は武家からの奉禄によって芸道が成立していたと主張する人も居るでしょう。
しかし、文化とは常に民衆の中から生まれる物です。
お茶もお花も香も、民衆の趣味としての存在が無ければ今ほどの発展は無かったでしょう。
"文化の正統性を求める"事は、今の日本人の悪い癖でもあります。
例えば、では宮中の雅楽は正統な雅楽です。
では、四天王寺の雅楽はどうでしょうか。
宮中の雅楽に比べれば色物でしょうか・・・我ながら書いていて恐ろしい物言いですが 笑
伝統として伝えられている物の全てに、それが今まで継承されるのはまでの正統な流れ・血脈があります。
そこにどれだけの価値の差が、上下が存在すると言うのか。
民衆の流れ、貴族の流れ、それぞれが相まって文化が成立するのです。
それが解らない人間に、伝統を口にする資格はありません。
現在は、日本文化を称賛して近隣諸国の文化を蔑視する意識がかなり広まっている様に感じます。
古くは文化的な側面から交流を持っていた人達と、文化的な側面から衝突するのは見ていて気分の良い物ではありません。
日本文化は確実に閉鎖性を増していると私は考えています。
先生を変えたい人は変えても良い
習い事の先生を変えたい、流派を変えたいと思う方は思いの外多い様です。
辞めたいと思う様な習い事は辞めたら良いのです。
同じ習い事を続けても、それはあなた一人の血脈ではなく、始祖からあなたの先生、そしてあなたへと続く血脈です。
そこに納得できない点があるなら続けるべきでは無いのです。
昔の本を読んでいると、日本人は案外シビアな所があり、納得できなければサッサと辞めてしまう様な所があります。
別に、それが普通なのです。
価値があると思えば続ければ良いし、価値がないと思えば辞めれば良い。
そう思えない状況が出来上がっているのは、それは伝統が云々ではなく、伝統文化の習い事がビジネスとして顧客を囲い込んでいる、というだけの話です。
一部の先生は理解できないかも知れません。
しかし、一部の先生は理解してくれます。
そもそも、理解できない先生はあなたとは気が合わない場合が多いというだけの話です。
今日はそんな所で終わります。
では!