小獅子の尾

芸術大学の通信教育部に通う20代女子の雑記

【戦後の暮らしと女の仕事】祖母が終戦を経験した話【陸軍のフェイント】

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色々な方に前回の記事を読んでいただいて、スターなんかも貰ったりして、調子に乗って祖母の話も書く事にしました。

祖父は田舎のボンボンなので、祖母の方が色々経験している感じですね。

良く解らないけど、祖父の家系で徴兵された人なんて聴いたことがないし、戦時中の農家は他の人達よりも楽をしてたんだと思います。
人によるとは思うけど。

そんな感じで、田舎の製材所の娘・祖母のお話です。


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山奥の製材所

祖母は田舎の製材所の娘として育ちました。
製材所というのは、切り出した木材を加工する工場の事です。

工場を稼働するには電気のボルトが足りないので、変電所の近くに住居を構え、山奥で暮らしていたらしい。

冬場は街灯もない山道を一人で帰宅するのが怖かったらしい。
山道は獣とかが出てくるので、一人だと夜じゃなくても怖いですね。

なにくそと思って帰ってたらしいですけど。

そんな祖母の実家は比較的豊かな家で、戦時中からトラックが自宅を行き来するのを見ていたそうです。

昔の話をするとき、うちは子供の頃からトラックかて見てたし、自動車なんか何にも珍しくなかったけど、他の人はちょっと車を見たら珍しがってなぁやとか言って自慢してきます。

ただ、お医者さんは馬に乗って村を行き来してたらしいです。
いや、普通に自動車珍しいやん・・・

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父なき子

そんな祖母には父親が居ませんでした。
お母さん(曾祖母)が女手一つで当時は子供だった祖母を育てていたんですね。

そんな祖母の家に、ある日突然オジサンが出入りする様になります。
馴れ馴れしくお母さん(曾祖母)に話しかける、アヤシイ男・・・

祖母は何日も宿泊して我が家に居座るアヤシイ男に若干の不快感を覚えつつ、お母さんに聞きました。
「あのオッチャン誰?いつまでいるん?」

するとお母さんは答えました。
「なんてこと言うの!お父ちゃんやで!」
「え?」

栄養失調で陸軍の基地から家に帰った曾祖父は、自分の子供に母親に馴れ馴れしく話し掛けるアヤシイ男だと思われてたのでした・・・。

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戦後の火事

祖母も終戦は早くに迎える。
まだまだ子供だったので、あんまり覚えてないみたいですね。

終戦よりも、馴れ馴れしいオジサンがお父ちゃんだった事を覚えてる程度なので、まぁ子供だから特に何も思ってなかったのでしょう。

戦後も製材所は続き、祖母は高校進学(ギリギリ尋常小学校の世代じゃないのは祖母の自慢の1つ・・・)を目指して勉強するものの、工場の配線から漏電し、大火事になり工場・自宅とも全焼します。

当時は電話がないので、消防署には連絡できず。
祖母宅は山奥なのもあり、発火から1日半後に消防車が来ましたが、全部燃えて鎮火した後だったらしい。

工場から発火したので、自宅から荷物を出す余裕はあり、お金も家財も全て残ったものの、煌々と燃える実家を見て、祖母は進学する気を失った。

この時、両親に無理に買って貰って大事にしていた、耳の垂れた毛の長いウサギを救出するのを忘れていて、今でも時々かわいそうな事したなぁと思って、思い出すそうです。
余談です。

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入学できない洋裁学校

高校に進学しなかった祖母は手に職を付けるために洋裁学校を志し、大阪の親戚の家に下宿します。

親戚の家でしばらく過ごし、さぁ出願するぞ!と思って学校に行くと、既に定員オーバーで出願できない事を職員さんから告げられました。

仕方がないので、洋裁学校へは来年出願する事にしました。

そして、一年間を大阪で過ごし、ついに出願の時期!
喜び勇んで出願に行くと、また定員オーバーで出願できませんでした。

洋裁は家でもできる女の仕事だったので、人気だったんですね。
働くために入学を希望しているのに、毎年定員オーバー。

あまりのアホらしさに祖母はやる気を無くし、親戚に口を聞いてもらって(コネ)、阿倍野の百貨店で菓子の販売をして働くことにしたそうです。

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戦後の仕事

当時は、百貨店でもお菓子は量り売りでした。
戦後の時代ですから、もちろんレジは無い。

電卓はあったけれども、帳簿の計算をする時にしか使わず、普段は暗算で計算して、物を売る度に帳簿に売ったものと金額を付けていたそうです。
手動レジですね。

菓子工場から商品を輸送して販売する訳ですが、人手が足りない時は販売員も菓子工場に行って働くと。

菓子工場の従業員は殆どが主婦のオバチャンで、パートみたいな感じで働いていたそうです。
この頃は専業主婦っていう概念はあんまり無かったですからね。

ついでに、正社員とアルバイト・パートみたいな区別も無かったそうです。
社会保険も年金も、そもそもの制度が存在しない時代ですから、働いてる人は全員労働者で特に区別はない。

業種によって、大体男の仕事とか、女の仕事とか言うのはあったみたいですけど、共働きが普通ですし、多分男女の差別みたいのはそこまで無かったんじゃないかな。

日本では、バブルの頃に専業主婦という概念が出てきて、そこで女性の社会進出が阻まれた様な感じがします。
個人的な意見ですけどね。

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食べ物を乞う人々

そんな感じで、百貨店で働いている頃に、実家の製材所の関係で祖父と知り合い、何故か結婚する事になりました。

戦後の貧しい時期でしたが、絹の赤い花嫁衣装(私が見た所、多分友禅か何かの中振り袖じゃないかな?)を用意してくれたそうです。

農家に嫁いだ祖母。
未だ戦後の貧しい時代。
農家には色々な物を持った都会の人が押し寄せ、食べ物との物々交換を求められる事が多かった様です。

物々交換で良く持ってこられたのは、絹の着物。
どうやって持ってきたのか解らないけど、京都市内(電車でも一時間くらいかかる)から箪笥を持ってきた人もいたらしい。

「絹の着物やから、価値がある」とは言うけど、絹の着物なんて言うような物じゃなかったそうな。

絹は絹でも、布団の表面なんかに使うような薄い絹で、赤地に黄色で水玉が描かれている様な、まぁ、本当に布団に使うような絹で着物を仕立てて、「絹の着物やから価値がある」と言い張っていたと。

可哀想だから食べ物はやったけどアホらしいというので、半世紀以上前の事ですけど、ちょっと怒ってました。

戦後の関西では、食べ物と交換する用の着物を仕立ててお金を稼いでいた人がいたみたいです。
みんなで示し会わせた様に、一様に変な着物を持って来ていたらしい。

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陸軍には軍人以外の仕事もある

そんな感じで、農業をしながら経済成長期を迎え、祖父は重機(トラクターとかですよ、)販売の会社を始め、子供を育てて今に至るらしいです。

ちなみに、馴れ馴れしいオジサンだと思われていた曾祖父が働いていたのは陸軍の樺太基地。
軍人・・・ではなく、基地で洗濯したり、料理したりするお仕事でした。

なぜなら、曾祖父には軍人としての資格が無かったからです。
徴兵の前の検査で、体重が軽いだか背が低いだかで落とされてるんですね~

徴兵制度があっても、誰でも軍に入れる訳じゃなくて、身体検査で落とされる人は意外と多かった様です。
まぁ、貧しい時代ですからねぇ、

徴兵検査で落とされて、自分はもう徴兵されへんわ、と思ってホッとしてたら軍の基地で働かさせられるというね。
フェイントですね。

終戦の直前に家に戻ってきているのですが、終戦と同時に樺太基地はソ連から攻められているので、良いタイミングで栄養失調になったんだと思います。

曾祖父は私が産まれる前に無くなりましたが、樺太基地での話もチョコチョコ聞いています。
またその内記事にできたらなぁと思ったり、思わなかったりです。

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