小獅子の尾

芸術大学の通信教育部に通う20代女子の雑記

【神社神道】日本神話の解釈ーお米の信仰

以前にも農業関係の記事で日本神話とお米について書きましたが、神話の解釈として新しく記事を書いていこうと思います。

宗教と私

私は元本職巫女という立場から、日本神話や信仰を尊いと感じる事があります。

これは、決して神道が正しい、日本人は宗教を持たねばならない!という意味ではなく、神話の解釈と宗教の歴史や儀礼の意味に纏わる理論に対する畏敬の念としてその様に感じます。

実は宗教儀礼というのは、民族性にも強く関わっているのですが、洋の東西を超えてある一定の共通点を持っています。

これらの儀礼がどの様にして世界に広まったのか、私には解りませんが、そこに何らかの意図と信仰があった事は明らかです。

宗教とは、世界最古の哲学であり倫理だと、私は思っています。

神話における太陽神と米

日本神話には、天照大神の庭に生えていた稲穂を人々の主食として定め、ニニギ尊が地上に伝えたというエピソードがあります。

日向国風土記には、天孫すなわち天照大神の孫であるニニギ尊が、「人々は食べ物を奪い合う為に争い合っている」という旨の発言をした後、雲の上から日本中に籾をばら蒔く印象的なシーンがあります。

二つのエピソードは、米もしくは稲穂の起源を太陽、もしくは太陽神に求めている事を示す物で、ニニギ尊の発言は米の特性を非常に良く言い表しています。

考古学における米の起源

一方で、考古学的には稲作の起源は中国大陸の苗族にあるとされています。

稲穂は元来ジャングル等に分布する植物で、太陽の当たらない場所では種の長期間保存するができます。

この為、ジャングルを切り開くと太陽光に反応して真っ先に芽吹く植物が稲穂なのです。
この様に、米の特性と太陽には神話に記される通り、密接な関係があると言えます。

更に、米には太陽光が当たらない場所では長期間保存できるという、優れた点があり、日向神話のニニギ尊の発言と一致します。

つまり、猟銃やあるいは稲作以外の農業で得た食べ物は、長期間保存する事ができない為に、争いが起きるが、長期保存が可能な米を日本に広める事で、争いが収まるという事になるのです。

「いただきます」と「ごちそうさま」

「いただきます」と「ごちそうさま」は日本の礼儀として、しばしばテレビ番組等で紹介されています。

確かに、食べ物に対して、あるいは作ってくれた人に対して「いただきます」「ごちそうさま」と言う礼儀としての部分はあると思います。

しかし、私はある時不思議な事に気がつきました。

畏まっている場合を除いて、飲み物を飲む時や、茶菓子を食べる時には「いただきます」「ごちそうさま」と言わないのです。

これは何故なのか、何度も考えて私はある問いに辿り着きました。
それは、我々は食べ物では無く、米に対して祈っているのでは無いか?という問いです。

米の信仰

神道において、米は非常に重視されています。

前述の日向国風土記では、米によって人間の世界に平和がもたらされますし、米は神道最高神である天照大神に由来する神聖な食物です。

神道儀礼では米や米から作った酒を最も重要な供え物としますし、米や酒はお払いにも用いられ、穢れを祓う物として扱われます。

ここには、天照大神やニニギ尊とは異なる次元で存在する、米の信仰が現れているのではないかと私は考えました。

それは、我々日本人の主食であり、命を育む"米"という植物に対する信仰です。

お田植え祭で予祝の芸能を演じ、秋祭りの頃に稲穂を刈り取る様に、祭礼の日程は稲作を基準に定められています。

稲作と米は神話と信仰の根幹でもあり、米への信仰は、日本神話以上に、深く日本人の精神へ影響を与えている可能性があります。




地域おこし協力隊の応募はこちらからどうぞ。